「戦中・戦後」の記録を考える

 今回の研修会のテーマが「北部の戦中・戦後を考える」とのことで、強い関心を持って参加したのですが、やむをえない事情から日程の一部が変更になったことと、十分な議論に至らなかったことは残念でした。そこで、この研修会の場で考えてみたかったこと、また考えさせられたことについて述べてみたいと思います。
 研修会のテーマについていえば、戦中から戦後にかけて30市町村以上、また20万人以上の住民が、北部での生活を余儀なくされていたわけですから、つまり、それだけの市町村史がかかわる重要な共通テーマであったと思います。この疎開地・収容所での社会生活をできるだけ正確に、また多面的に記録していこうとすれば、関係する市町村史間の協力がなければ難しいのではないでしょうか。そうした点を聞きたかったと思います。
 南部の住民に視点を置いた場合、北部に疎開したかどうかは、生死の分かれ目になりました。 また、運よく南部で生き延びても、南部の収容所に入れられるか、それとも北部に送られるかで明暗が分かれる場合があります。同じ北部でも、栄養失調やマラリアに苦しんだ収容所もあれば、それほどでもない収容所もあったのです。地獄のような南部の戦場を生き延びたのに、北部の収容所で命を落としてしまった話を聞くと、戦火の中での体験とともに北部での生活についても記録することの重要さを感じます。
 そして、今回のテーマは、「北部」とともに「戦中・戦後」の記録づくりをどうするかということにあったのではないでしょうか。最近、沖縄市史より『仲宗根山戸日誌』が発行され、これまで「体験記」に頼っていた収容所での生活の様子が具体的に明らかになってきました。この資料を基に聞取りをすることもできるようになったわけです。
 その沖縄戦の記録については、「体験者の高齢化が進み、その調査・記録は一刻の猶予もない」との認識で各地域において取り組まれていると思います。市町村によって、全戸悉皆調査をおこなうところから、その取り組み方は様々ですが、ここ10年ほどの調査の蓄積は相当なものになっているでしょう。
 ところで、自己反省でいえば、戦場での体験については熱心に聞き取りますが、捕虜以降のことは、特徴的なところをおさえるのみで、いくぶんなおざりになってしまうところがあります。しかし、1945年の沖縄戦の記録が、今着手しないと消え去ってしまう緊急なことであれば、当然1946、47年ごろの収容所時代・村落の復興期の記録も緊急性は同じであるといえます。
 聞き取り調査のために村落を回ると、当時の国民学校生徒の多くがまだ還暦前のため、記憶もしっかりしていてエピソードも豊富です。そのために、この人たちが元気な間は、まだ10年20年は大丈夫と勘違いしがちになります。ところが、本人や家族の話題を離れて、こと村落の動きとなると彼らからはあまり情報を得ることができないことに気付かされます。それは当然のことで、今の小学生に役場の業務や村落の組織のことを聞いても答えられないのと同じことなのです。このように、戦中のみならず戦後の記録についても、時間との戦いがおこなわれているといっていいでしょう。
 また、戦災によって破壊された村落の姿をどう記録するかという課題もあると思います。家屋敷が破壊されただけでなく、米軍に基地として接収され消えた村落もかなりありますし、米軍基地とは縁の薄い南部地域においても、戦中に米軍によって敷きならされ、戦前とは様相が変わってしまった村落がいくつかあります。こうした記録は、歴史学や民俗学という学問上の評価はわかりませんが、村落の歴史を記録し残していくのが地域史だとすれば、遺跡の発掘による村落の形成の研究とその重要さは同じであると考えます。
 誤解を恐れずに言えば、こうした戦中・戦後の記録づくりは「戦争の悲惨さを訴える」以前の問題として、地域史としてやらねばならないことではないかと思います。そして、こうした地道な事実の積み重ねによって、戦争による人的・物的被害が誰も否定しようのない客観的データとして示すことができると思います。
 余談になりますが、戦中・戦後の記録に関連して、今関心を持っているのが、シンガポールにある口述歴史館です。これは、国立公文書館の口述部門として設立されたもので、現在では独立した機関となっています。その業務は人々の生の声を記録し、それを文章化して印刷物に仕上げることにあります。これまでに、日本軍占領期から現代史まで1万人近くの聞取りをおこない、30分テープで1万個の収蔵があるとのことです。
 沖縄においてもそうした機関や取り組みが必要ではないかと考えています。

            『あしびなぁ』第6号 沖縄県地域史協議会 1994年


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