1.沖縄県の戦災状況
(1)戦争による被害
(2)沖縄県公表の沖縄戦戦没者数について
(3)「平和の礎」の戦没者数について
2.糸満市の沖縄戦戦災状況
(1)他市町村との比較
(2)北部疎開者の戦災状況
(3)市域残留者の戦災状況
@戦闘状況との関係
A住民の避難行動との関係
B日本軍による犠牲
3.本土および外地での戦災状況
1.沖縄県の戦災状況
(1)戦争による被害
『糸満市史 資料編7 戦時資料下巻』(以下『戦時資料下巻』)では、沖縄戦だけでなく「満州事変」に始まる15年戦争での糸満市民の体験や戦災状況について調査し記録している。戦争の悲惨さを学び、戦争を起こさないためにはどうすればよいのかを考え続けていくためにも、戦争がもたらす被害の実態をしっかりと記録し、次の世代へと伝えていくことはとても大事なことである。しかし、実際には、戦争によって沖縄がどれだけの被害を受けたのかについては、
よくわかっていない。
戦争による被害には、人間が死傷する人的被害と財産などが戦火により焼失・破壊される物的被害などがある。
戦争はかつて職業軍人が主体となって戦い、その被害の範囲は限定されたものであった。しかし、近代になると、国家と国家が国の総力をあげて戦争体制をとり、人間と物資を総動員して戦う形態となった。さらに、技術革新にともなう兵器の開発競争は、戦車・飛行機・潜水艦・毒ガス・原子爆弾などを生み出した。近代兵器の登場により、破壊力・殺傷力は恐るべき勢いで強力化していった。
その結果、太平洋戦争を含む第二次世界大戦では、全世界で約6,000万人が死亡し、また、ヨーロッパや日本のいくつもの都市が空襲や原爆の投下で壊滅的な破壊を受けている。死傷者は兵士だけではなく、多くの非戦闘員が戦火に巻き込まれ、犠牲となった。
沖縄も15年戦争下の戦時体制のなかで、県民が戦争に総動員され、十数万人が犠牲となる多大な被害を受けた。
糸満市域は沖縄戦において地上戦の場となり、砲弾・爆弾が降りそそぎ、「鉄の暴風」が荒れ狂った。村も野も山も戦火に焼かれ、多くの住民が犠牲となった。また、被害を受けたのは沖縄に住んでいた人々だけではなかった。県外に在住する糸満市域の出身者たちもそれぞれの場所で戦火にあい、多数の者が犠牲になった。
沖縄戦でどれだけの人々が戦没したのかについては、沖縄県によってある程度の概要はまとめられている。また糸満市域については、今回の「糸満市戦災調査」によってかなり明確になった。しかし、人的被害は戦没者だけではない。戦火の中を生き残った人々も無傷ではなかった。癒されぬ身体的・精神的障害を負い、戦後も苦しみ続けた者も多いが、こうした被害については、「糸満市戦災調査」でも把握することはできなかった。
物的被害についても、特に沖縄戦による被害は甚大であったが、全県的な調査がないため、具体的な戦災状況は不明である。
戦争によって破壊されたものとしては、財産や文化、自然などがある。
財産の被害については、「糸満市戦災調査」で家屋の状況が調査されているが、それによると糸満市域の家屋の約98%が焼失し、ほぼ全滅である。家畜も全滅状態で、田畑も焼き払われて荒廃し、何世代にもわたって築き上げた財産が一瞬のうちに消滅したのであった。役場や国民学校などの公共施設や軽便鉄道などの社会資本も壊滅状態で、与座の高嶺製糖工場が破壊されるなど、沖縄の重要産業である製糖業も大きな打撃を受けている。戸籍や登記関係の公文書などが焼失したことも戦後の復興においては大きな影響があった。
また、南洋群島やフィリピン、満州などに移民した人々も努力して築いた財産を戦争のために失い、着の身着のままの状態で沖縄に引揚げている。
文化遺産の喪失も戦争による大きな被害であった。琉球王国の政治・文化の中心であった首里には、首里城正殿をはじめ16件もの国宝建造物が集中していたが、その全てが焼失し、古都は廃墟と化した。
糸満市域においても村々の有形文化財やグスク・御嶽などの聖地が大きな被害を受けている。また、戦時体制下の社会統制や戦後の混乱のために途絶えた祭祀や行事などの無形文化財もあった。
自然もまた戦争に傷つけられた。沖縄戦から1年後、県外から沖縄に引揚げてきた人々の目に映ったのは、変わり果てた山野だった。糸満市域の場合、多くの人々が証言しているのは、与座岳の変貌であった。木々は焼かれ岩は砕かれて、緑なす山は一面真っ白くなり、採石場のようになっていた。また、座波の馬場の松並木など、古くから人々が大事にしてきた風景も、沖縄戦によって消えてしまった。
以上のように、戦争によって人間、財産、文化、自然などが大きな被害を受け、沖縄は壊滅状態となった。生き残った人々がそこから学んだことは、「二度と戦争を起してはならない」との思いであった。
それでは、「糸満市戦災調査」からわかった戦没者の状況と沖縄県公表の沖縄戦戦没者数および「平和の礎」の戦没者数の分析を通して、糸満市域の戦災状況についてさらに検討する。
(2)沖縄県公表の沖縄戦戦没者数について
沖縄戦において沖縄県民がどれだけの被害を受けたのかについては、現在でも明確になっていない。これまで全県的な総合調査は実施されたことはなく、戦没者数が公表されている程度である。
沖縄県援護課が発表している沖縄戦戦没者数の推計は200,656人で、うち沖縄県民の戦没者数は122,228人である。これが現在のところ唯一の公式の沖縄戦戦没者数で、教科書もこの数字を参考にしている。しかし、この戦没者数は厳密な調査によって得られたものではなく、机上の計算によって出されたものである。
この戦没者数の算出は、もともと沖縄戦の被災状況を明らかにするのが目的ではなかった。1953(昭和28)年からの沖縄への援護法の実施により、その対象者を認定する作業が進められた。国や琉球政府・沖縄県は、援護業務を進めるための基本的資料として、沖縄県民の戦没者数を把握する必要があった。そこで、沖縄戦直前の県内在住人口から終戦直後の在住人口を除くことで戦没者数を求めたのである。
終戦直後の人口については、1946(昭和21)年1月15日現在の人口調査が唯一の基礎になった。沖縄戦直前の人口については、1944(昭和19)年12月1日現在の市町村別統計を使用しているが、この統計資料には調査洩れなどがあって、参考資料にすぎないともいわれている。
また、沖縄戦直前にかなりの人々が県外に疎開しており、県内在住人口を求めるには、疎開者についても正確に押さえる必要があるが、公式の資料がないため、関係者の証言に基づいて約62,000人と推定した。
以上のような資料を基本にして次のように沖縄戦の戦没者数が算定された。
(a)1944年12月1日現在の県総人口 590,264人
(b)うち宮古、八重山両郡の人口 98,352人
(c)沖縄本島地区から本土への疎開者数 約62,000人
(d)1946年1月15日現在の沖縄在住人口(宮古、八重山を除く) 315,775人
まず、(a)の590,264人から(b)の98,352人を除き、1944年当時の沖縄本島及び周辺離島の人口を出した。そこから(c)の約62,000人を除き、沖縄戦開始時に沖縄に留まっていた人々を429,912人とした。この数字から終戦直後の人口である(d)を差し引いた114,137人を沖縄戦における仮の戦没者数としたのである。
ところで、県民の戦没者のうち軍人軍属については、 援護法の対象ということで、認定調査がおこなわれており、
1976(昭和51)年現在で28,228人となっている。先の仮の戦没者数114,137人からこの軍人軍属28,228人を除くと85,909人となる。これが一般県民の戦没者数になるのだが、宮古・八重山で亡くなった一般県民や調査洩れなどを合わせると10%程度は増えるであろうと勘案して、最終的に一般県民の戦没者数を約94,000人と推定した。
この一般県民の戦没者数約94,000人に軍人軍属の戦没者数28,228人を合わせた122,228人が沖縄県民の戦没者総数となるのである。
以上の算定方法からもわかるように、この戦没者数は信頼性に疑問があり、あくまでも概数としてとらえる必要がある。
このような算定方法をとるしかなかった原因は、戦前の戸籍や人口統計など基礎となる資料の多くが戦災により失われたことと、国や県による総合的な戦没者調査が取り組まれてこなかったためである。
県が公表している戦没者数は、援護業務を進める上から算定されたもので、あくまでも一般県民の中から援護法に適用される「戦闘参加者(戦闘協力者)」を認定することが目的であった。本来、援護法に基づく援護業務は軍人軍属が対象であって、空襲などによる民間人の犠牲者などへの補償は基本的におこなわれていない。 しかし、地上戦となり戦場と化した沖縄県に関しては、軍人軍属以外の民間人であっても、日本軍の要請により戦闘に協力し、任務遂行中に死亡または負傷した者は、戦闘参加者として準軍属の身分を有することになったのである。これにより援護法が適用され、補償を受けられることになった。1976(昭和51)年現在で、戦闘参加者として認定されているのは55,246人である。
一般県民の戦没者数約94,000人から戦闘参加者55,246人を除いた38,754人が一般住民と位置付けられた。ここで、数字から「約」が消え、正確な数字であるような誤解を生むことになっている。
現在、沖縄県が公表している沖縄戦戦没者数(推計)の内訳は次の通りである。
沖縄戦戦没者数(推計)
沖縄県民 |
軍人軍属 |
28,228人 |
戦闘協力者 |
55,246人 |
一般住民 |
38,754人 |
本土出身軍人軍属 |
65,908人 |
米 軍 |
12,520人 |
総 数 |
200,656人 |
この「一般住民」とは、援護法に基づく戦闘参加者に該当しない者ということであって、両者とも非戦闘員であることに違いはない。たとえば、日本軍から避難壕を追い出されたために死亡した場合でも、「日本軍への壕の提供」として乳幼児であっても戦闘参加者に認定されている。その他にも「集団自決」や「スパイ嫌疑」などによる死者が戦闘参加者に認定されている。
このような事例からみても、日本軍と米軍の戦闘に巻き込まれ犠牲となった「一般住民」が援護法の対象外となり、戦闘参加者と区別されているのは、単に援護業務上のことでしかないのである。
こうした援護業務の都合上、認定作業の進行により戦闘参加者は増えていくことになる。しかし、これは「一般住民」からの変更であって、一般県民の総数である約94,000人は変わらない。
〔※参考資料:嶋津与志『沖縄戦を考える』ひるぎ社 1983年〕
(3)「平和の礎」の戦没者数について
1995(平成7)年6月に、国籍や軍人、非軍人の区別なく、沖縄戦で亡くなった全ての人々の名前を刻む平和の礎(いしじ)が、糸満市摩文仁の平和祈念公園に建設された。その基本理念は、戦没者の追悼と平和祈念、戦争体験の教訓の継承、安らぎと学びの場の形成などとなっている。
刻銘の対象者は、基本的には沖縄戦で亡くなった全ての人々である。ただし、沖縄県出身者については、沖縄戦が1931(昭和6)年の満州事変に始まる15年戦争の帰結であることから、1931年9月から1945(昭和20)年9月までの間に、県内外において戦争が原因で亡くなった人々をはじめ、次の場合についても刻銘の対象としている。
@空襲や徴用船、疎開船、引揚船の遭難などにより亡くなった者。
A退去命令や疎開によるマラリアまたは栄養失調などにより亡くなった者。
B戦争が原因で、終戦後おおむね1年以内に亡くなった者。ただし、原爆被
爆者は期間を定めず刻銘する。
2002(平成14)年6月23日現在の刻銘者数の内訳は以下の通りである。
平和の礎刻銘者数
日本 |
沖縄県 |
148,384人 |
県外 |
75,516人 |
外国 |
アメリカ |
14,007人 |
イギリス |
82人 |
台湾 |
28人 |
朝鮮民主主義人民共和国 |
82人 |
大韓民国 |
309人 |
合 計 |
238,408人 |
この平和の礎では、県民の刻銘者については1931年から1945年までの15年戦争による犠牲者とした。しかし、刻銘者の調査にあたっては、戦没の期日・戦没地に関しての詳細な確認をしていないため、このうち沖縄戦で亡くなった者がどれだけなのかは明らかになっていない。前掲の沖縄県民の沖縄戦戦没者数122,228人とは
約26,000人の差があるが、その理由も不明のままである。
平和の礎の刻銘者数と前掲の援護課の資料との大きな違いは、イギリス人・「台湾人」・「朝鮮人」の戦没者数が明示されていることである。 しかし、特に「朝鮮人」については、まだ調査の途上であり、刻銘されているのはごく一部でしかない。また、援護課の資料に比べると日本兵・米兵の数もかなり増えている。 これは、海上遭難者や特攻機搭乗者なども刻銘の対象に含めたための増加と思われる。以上のことからも、援護課の資料が暫定的なものであることがわかる。
県内市町村別の刻銘者数(2002年6月23日現在)と人口との比率は以下の通りである。人口は1940(昭和15)年10月1日現在の国勢調査によるもので、あくまで目安にすぎないことをご承知願いたい。
市町村別刻銘者数と人口比率
市町村名 |
刻銘者数 |
人 口 |
比 率 |
国頭村 |
1,771 |
9,969 |
17.8% |
大宜味村 |
1,471 |
8,037 |
18.3% |
東村 |
618 |
3,171 |
19.5% |
今帰仁村 |
2,175 |
11,915 |
18.3% |
本部町 |
4,088 |
20,409 |
20.0% |
伊平屋村 |
313 |
2,710 |
11.5% |
伊是名村 |
441 |
3,652 |
12.1% |
伊江村 |
2,827 |
6,816 |
41.5% |
名護市 |
5,625 |
28,635 |
19.6% |
恩納村 |
1,459 |
5,764 |
25.3% |
宜野座村 |
618 |
8,270 |
24.4% |
金武町 |
1,404 |
石川市 |
1,321 |
23,861 |
28.1% |
沖縄市 |
5,390 |
具志川市 |
3,247 |
16,228 |
20.0% |
与那城町 |
1,773 |
10,737 |
16.5% |
勝連町 |
1,043 |
7,663 |
13.6% |
読谷村 |
3,834 |
15,883 |
24.1% |
嘉手納町 |
1,433 |
15,131 |
24.6% |
北谷町 |
2,295 |
北中城村 |
2,081 |
16,731 |
43.4% |
中城村 |
5,184 |
宜野湾市 |
5,416 |
12,825 |
42.2% |
西原町 |
6,266 |
9,852 |
63.6% |
浦添市 |
5,755 |
11,084 |
51.9% |
那覇市 |
29,266 |
109,909 |
26.6% |
豊見城市 |
4,691 |
9,498 |
49.4% |
東風平町 |
4,738 |
8,899 |
53.2% |
具志頭村 |
2,700 |
6,315 |
42.8% |
玉城村 |
2,450 |
7,575 |
32.3% |
知念村 |
1,271 |
4,728 |
26.9% |
佐敷町 |
1,672 |
6,250 |
26.8% |
与那原町 |
1,954 |
12,632 |
38.2% |
大里村 |
2,867 |
南風原町 |
4,467 |
8,899 |
50.2% |
糸満市 |
11,671 |
24,811 |
47.0% |
仲里村 |
580 |
7,512 |
7.7% |
具志川村 |
517 |
5,902 |
8.8% |
渡嘉敷村 |
588 |
1,377 |
42.7% |
座間味村 |
677 |
2,348 |
28.8% |
粟国村 |
599 |
2,768 |
21.6% |
渡名喜村 |
291 |
945 |
30.8% |
南大東村 |
42 |
5,844 |
0.9% |
北大東村 |
9 |
平良市 |
1,448 |
26,412 |
5.5% |
城辺町 |
564 |
14,947 |
3.8% |
上野村 |
188 |
10,974 |
6.1% |
下地町 |
484 |
伊良部町 |
467 |
8,453 |
5.5% |
多良間村 |
160 |
3,632 |
4.4% |
石垣市 |
4,357 |
20,837 |
20.9% |
竹富町 |
1,130 |
8,978 |
12.6% |
与那国町 |
688 |
4,580 |
15.0% |
合 計 |
148,384 |
574,368 |
25.8% |
1940年以降に県外に移民や疎開した者は多く、 市町村によっては沖縄戦当時の人口にかなりの変動がある。そして、何よりも戦没の時期が15年間にもわたっており、刻銘者数と人口との比率から市町村別の戦災状況を捉えるのは慎重でなければならない。しかし、刻銘者の大部分は沖縄戦で亡くなった者であり、したがって、上の表から沖縄戦の戦災状況の大まかな傾向をみることはできる。
沖縄本島についてみると、激戦のあった宜野湾市・北中城村以南の地域の比率が高いことがわかる。南部地区では、日本軍の撤退コースであり、最後の戦いの場所となった中央部から西側(豊見城市・南風原町・東風平町・糸満市など)の比率が高く、日本軍があまり配備されてなく戦闘も比較的激しくはなかった東側(知念村・佐敷町・玉城村など)では低いことがわかる。
地上戦のなかった宮古・八重山では、宮古の比率が低いのに対して八重山が高めであるのは、戦争マラリアの問題が関係しているものと考えられる。糸満市の刻銘者数は、那覇市に次いで2番目に多い。
平和の礎は追加刻銘が続けられており、まだ完全なものではない。今後、刻銘者数の内訳の解明が望まれている。
「2.糸満市の沖縄戦戦災状況」へ
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