糸満市の戦災状況

2.糸満市の沖縄戦戦災状況


 糸満市では、1995(平成7)年から1年余かけて、沖縄戦当時、市域に本籍を有した37,047人を対象に「糸満市戦災調査」をおこなった。 その調査結果については、『糸満市史 資料編7 戦時資料下巻』(以下『戦時資料下巻』)の「第1章 糸満市戦災調査からみえてくるもの」で報告している。
 戦没の状況についても、@年代・性別の生死状況、A身分別戦没状況、B戦没地と時期、などについて解説があるので参照していただきたい。
 さて、ここでは、旧町村や字別の戦没率の違いなどを手掛かりに、糸満市域の戦災状況についてみていくことにする。

(1)他市町村との比較

 沖縄戦の戦災状況に関する全県的な調査は、平和の礎の刻銘者の調査以外にはほとんどおこなわれていない。また、市町村独自で戦災状況の調査を実施したところもまだ少数である。
 下の表は、沖縄戦の戦災調査をおこない公表している市町村と糸満市とを比較したものである。

   沖縄戦戦災状況の他市町村との比較
市町村名 県内所在者数 戦没者数  戦没率
北谷町    7,962  1,207  15.2%
浦添市    9,217  4,112  44.6%
西原町   10,881  5,106  46.9%
南風原町    7,896  3,505  44.4%
佐敷町    5,461  1,427  26.1%
糸満市   22,961  8,473  36.9%
糸満町    5,221  1,467  28.1%
兼城村    4,979  1,566  31.5%
高嶺村    3,730  1,604  43.0%
真壁村    4,459  2,000  44.9%
喜屋武村    2,079   647  31.1%
摩文仁村    2,493  1,189  47.7%
〔※参考資料:北谷町史編集委員会『北谷町史 第5巻 資料編4 北谷の戦時体験記録』1992年/浦添市教育委員会『浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録』1984年/西原町史編纂委員会『西原町史 第3巻 資料編2 西原の戦時記録』1987年/南風原町史編集委員会『南風原町史 第3巻 戦争編ダイジェスト版 南風原が語る沖縄戦』1999年/佐敷町史編集委員会『佐敷町史 4 戦争』1999年〕

 比較する市町村が少ないため、これだけの資料から沖縄県全体の戦災状況を示すことはできないが、ある程度の概要をみることは可能であろう。日本軍と米軍の激しい攻防戦となった浦添市・西原町はかなり高い戦没率となっており、戦闘に一般住民が巻き込まれたことが想像できる。また、北谷町は米軍の上陸地になったが、日本軍が上陸阻止の水際作戦をとらずに部隊を配置していなかったため、激しい戦闘は起こらなかった。戦没率が低いのはそのためだろうか。
 南風原町の場合は、4月に住民の立ち退き命令が出ており、米軍の地上部隊が町内に進攻した時には、多数の住民は町外に避難していた。 住民は南部を逃げまどい、やがて多くが糸満市域にたどりついている。その避難の間に犠牲になったようである。
 南部地区の東側に位置する佐敷町は比較的戦没率は低い。 米軍上陸後は日本軍の配備はほとんどなく、米軍の攻撃も他に比べると激しくなかったためと考えられる。
 そして糸満市の戦没率をみると、激戦地であった浦添市・西原町や南部を逃げまどった南風原町よりも低い。しかし、同じ糸満市でも旧町村によってかなりの差があり、旧摩文仁村は西原町よりも高いのである。

(2)北部疎開者の戦災状況

 前述のように糸満市の戦没者状況は、旧町村ごとに大きな差がある。さらに同じ町村であっても字ごとの差がかなり大きい。したがって、糸満市の戦災状況を捉えるためには、地域ごと、字ごとに戦災状況をみていかなければならない。
 糸満市域における沖縄戦の戦災状況を検討するには、北部に疎開した人々と疎開せず市域にとどまった人々とを分けた方がよい。本島北部に疎開した人々の戦没率は、疎開しなかった人々に比べてかなり低くなっている。そのため北部に疎開した者が多い字では、少ない字に比べると戦没率が低くなるのである。たとえば、字糸満は県内所在者の26.3%も北部に疎開している。米軍上陸後の糸満市域での戦災状況をみる場合には、それ以前に北部に疎開していた人々を数値から除いた方がより鮮明になる。
 北部に疎開した人々の旧町村別の戦没者数と戦没率は次の通りである。

   北部疎開者の戦災状況
町村名 疎開者数 戦没者数  戦没率
糸満町  1,368   65   4.8%
兼城村   612   48   7.8%
高嶺村   508   53  10.4%
真壁村   319   23   7.2%
喜屋武村   153    9   5.9%
摩文仁村   190   26  13.7%
 合 計  3,150   224   7.1%

 北部に疎開した人々の戦没率は、市域全体で7.1%であり、疎開しなかった人々に比べるとかなり低い。疎開者にも多くの犠牲者は出ているが、やはり疎開したかどうかは生死の明暗を分ける大きな要因となっている。
 各町村の疎開指定地は、糸満町・兼城村・喜屋武村・摩文仁村が恩納村で、高嶺村・真壁村が大宜味村だった。町村ごとの戦没率をみるかぎりでは、特に戦災状況に大きな違いはないようである。 また、字ごとの戦没率も字摩文仁が33.3%と高いが、これは27人中9人の戦没と数値は小さい。その他は高い字でも10%程度であり、特に際立った地域差はない。
 日本軍の指示により、北部への疎開者は老人と子どもが中心であった。県による避難小屋建設と食糧確保が十分整わないままに米軍の上陸となり、疎開者たちは手持ちの食糧だけで山中をさまようことになった。 やがて食糧を食べ尽くして飢餓状態となり、さらに衛生状態の悪い避難生活のためにマラリアなどの病気も流行した。老人など体力の弱い者が次々と犠牲になっていった。
 日本軍は北部地区の防衛を放棄して、本部半島など一部の地域にしか地上部隊は配備していなかった。これらの部隊は、進攻してきた米軍に対して正面から攻撃せず、山中に隠れてゲリラ戦をおこなっていた。したがって、北部地区での日米両軍の激しい攻防戦はなく、住民が戦闘に巻き込まれて犠牲になることは多くはなかった。そのため、体験者の証言でも、米兵による被害よりも山中の敗残兵による食糧強奪などの被害の方が目立っている。

(3)市域残留者の戦災状況

@戦闘状況との関係

 北部に疎開せず市域に留まった一般住民(身分不明者も含む)の旧町村別・字別の戦没者数と戦没率は次の通りである。

   市域残留者の戦災状況
町村名 市域残留者 戦没者数  戦没率
糸満町   1,763   501  28.4%
兼城村   3,412   963  28.2%
高嶺村   2,566  1,117  43.5%
真壁村   2,821  1,262  44.7%
喜屋武村   1,576   427  27.1%
摩文仁村   1,789   843  47.1%
 合 計  13,927  5,113  36.7%

  市域残留者の字別戦災状況
 字名 市域残留者 戦没者数  戦没率
 糸満   1,763   501  28.4%
 照屋    414   133  32.1%
 兼城    352    90  25.6%
 座波    929   232  25.0%
 賀数    250    84  33.6%
 北波平    237    98  41.4%
 武富    440   150  34.1%
 阿波根    375    95  25.3%
 潮平    415    81  19.5%
 豊原    240   102  42.5%
 与座    572   307  53.7%
 大里    777   374  48.1%
 国吉    335   107  31.9%
 真栄里    642   227  35.4%
 真壁    529   236  44.6%
 宇江城    121    58  47.9%
 真栄平    850   454  53.4%
 新垣    378   182  48.1%
 伊敷    103    49  47.6%
 名城    503   169  33.6%
 小波蔵    188    70  37.2%
 糸洲    149    44  29.5%
 喜屋武    880   246  28.0%
 福地    215    42  19.5%
 山城    224    64  28.6%
 束辺名    135    39  28.9%
 上里    122    36  29.5%
 南波平    167    57  34.1%
 伊原    201    56  27.9%
 米須    917   541  59.0%
 大度    212   102  48.1%
 摩文仁    292    87  29.8%
 合 計  13,927  5,113  36.7%

 旧町村ごとの戦没率をみてわかるのが、糸満市域北部〜西部の兼城村・糸満町・喜屋武村は比較的に低く、中部〜東部の高嶺村・真壁村・摩文仁村は高いということである。これには、日本軍と米軍との戦闘の状況が大きく関係しているものと考えられる。
 戦没率が45%を超す字は、 与座(53.7%)、大里(48.1%)、
宇江城(47.9%)、真栄平(53.4%)、新垣(48.1%)、伊敷(47.6%)、
米須(59.0%)、大度(48.1%)と8字ある。ほとんどの字が日米両軍の激しい攻防戦がおこなわれた地域か、日本軍が最後まで立てこもっていた地域である。
 与座と大里は、日本軍と米軍の激しい攻防戦が展開された与座岳周辺にある集落である。日本軍は、八重瀬岳−与座岳−国吉の線を最後の防衛線にし、与座岳一帯には歩兵第89連隊や工兵第24連隊などが立てこもって米軍を迎え撃った。
 米軍は6月8日頃より与座岳に猛烈な空襲、砲撃、艦砲射撃をおこなった。 そして、火炎放射器や戦車砲、手榴弾で壕という壕をしらみつぶしに攻撃していったが、日本軍も激しく抵抗し、一進一退の攻防戦となった。米軍はかなりの被害を出しながらも、16日には与座岳を占領している。
 宇江城と真栄平・新垣の一帯は、第24師団の残存部隊が最後に立てこもっていた地域である。与座岳が占領され、6月19日には真栄平で戦闘が起こっている。宇江城のクラガーには第24師団司令部があり、周辺の地下陣地に立てこもる日本軍は激しく抵抗していた。20日に新垣が占領され、23日には、真栄平南東端の日本軍が立てこもる洞窟が爆破されて、この一帯の戦闘はほぼ終了したようである。クラガーの第24師団司令部は、30日に師団長以下幕僚が自決した。
 米須や大度の一帯は、 第62師団などの残存部隊が最後に立てこもっていた地域で、米須北側の陣地壕には歩兵第64旅団司令部があった。 20日に米軍と日本軍の激しい戦闘があったが、歩兵第64旅団司令部はこの日でほとんどが戦死し、翌日未明に旅団長が壕内で爆雷を爆発させて自決している。米軍は日本兵の立てこもる陣地壕に馬乗り攻撃をかけて、爆雷・黄燐弾・火炎放射器で一つ一つ壊滅させていった。
 逆に戦没率が30%未満の字は、糸満(28.4%)、兼城(25.6%)、
座波(25.0%)、阿波根(25.3%)、潮平(19.5%)、糸洲(29.5%)、
喜屋武(28.0%)、福地(19.5%)、山城(28.6%)、束辺名(28.9%)、
上里(29.5%)、伊原(27.9%)、摩文仁(29.8%)と13字ある。ほとんどの字は激しい攻防戦がなかった地域である。
 兼城と座波・阿波根・潮平は兼城村である。日本軍は、米軍が兼城村に進攻する前に与座岳−国吉の防衛線まで撤退したため、村内では激しい戦闘はあまり起きていない。6月6日に米軍は東風平村の志多伯から進入し、北波平を占領して南下した。日本軍との戦闘は小規模で、11日頃には照屋を制圧した。兼城村は6日間ほどで米軍にほぼ占領されたことになる。日本軍の抵抗がほとんどなかったため、住民が避難するガマなどを米軍が激しく攻撃するということはなかった。
 喜屋武と福地・山城・束辺名・上里は喜屋武村である。喜屋武村一帯には第62師団の残存部隊が配備され、米軍の進攻に備えて戦闘の準備をしていた。ところが、第32軍司令部のある摩文仁の周辺に米軍が進攻してきたため、その防衛のために第62師団の部隊はほとんどが摩文仁方面に移動させられた。その後喜屋武村一帯は、小部隊が分散しているだけになったようである。6月19日には米軍が喜屋武の丘陵に進攻し戦闘がおこった。米軍は火炎戦車を主力にして攻撃してきたが、日本軍には組織的に抵抗する戦力はほとんどなかった。束辺名の日本軍陣地が激しく抵抗していたが、21日には壊滅し、その後は一方的な掃討戦が続くことになる。
 このように喜屋武村一帯では、高嶺村、真壁村、摩文仁村などに比べると激しい戦闘はおきなかったために、ガマなど地下に避難していた村民たちの被害は比較的少なかったようである。しかし、米軍は敗残兵を掃討するために喜屋武岬一帯を火炎放射器で焼き払っており、地上を逃げまどっていた多くの避難民が巻き込まれて犠牲になった。

A住民の避難行動との関係

 地域における戦災状況と、日米両軍の戦闘状況が強く関係していることが、集計された各字の戦没率から明らかになっている。だが、詳細に戦没率を比較していくと、戦闘状況だけでは説明できない字がいくつかある。たとえば、兼城村の賀数と座波は、道路を一つ隔てただけの隣接する集落であるが、戦没率には大きな差がみられる。どちらの字も5月末頃までは、住民の多くは字内のガマや屋敷壕などに避難していた。 やがて米軍が進攻してくると、賀数の人々は大多数が字外に逃げ出したが、座波の人々はそのまま屋敷壕などに隠れて、そこで捕虜になった。結果的に、北部への疎開者を除く一般住民の戦没率は、賀数が33.6%なのに対して座波は25.0%である。
 賀数では、ほとんどが自発的に避難しているようである。軍や警察から住民の退去命令が出たという証言があり、その命令に従ったようである。字外に逃げ出した人々は、安全な場所を求めてさまよい、その避難の行程で犠牲となっていった。
 座波では、どうせ死ぬなら自分の部落でと、小さな屋敷壕に隠れ続けていたようだが、それが逆に多くの住民を救うことになった。もし、退去命令に従っていたなら、賀数と同じようにもっと犠牲者が出ていたであろう。
 賀数と座波の例のように、 住民の避難行動には字によってかなりの差がみられる。糸満市域に米軍が進攻してきたのは6月初旬のことであった。糸満市が沖縄本島の南端に位置していることもあり、それまではほとんどの住民は字内にとどまっていた。 糸満市域には大小のガマが無数に点在し、さらには警察などからの指示で、住民の屋敷内には家族用の避難壕が掘られていた。また、住民多数を収容できる共同の避難壕を用意した字もあった。
 いよいよ米軍が進攻してきた時、字内にとどまるか、それとも字外に避難していくかが重大な選択となった。字外に避難するかどうかは、安全な避難場所の有無や家族の事情、日本軍からの圧力など様々な要因に左右された。当時の状況のなかで住民が戦況などを判断して行動することは、ほとんど不可能であり、どちらの方が正しい判断だったとは一概にはいえない。
 兼城村や糸満町では、米軍から逃れるための避難が多かったのに対し、その他の地域では、日本軍に避難壕を追い出されるなどして移動を余儀なくされた場合が多いようである。

B日本軍による犠牲

 沖縄戦の際立った特徴として、自国の軍隊に国民(住民)が殺害された例が多いということがある。糸満市においても住民の戦災状況を考える上で、日本軍の存在は大きく無視することはできない。前述した日本軍と米軍の直接の戦闘による被害とは別に、日本軍の住民蔑視や敵視により引き起こされた様々な事例によって住民が犠牲になっている。これは単に戦闘に巻き込まれた犠牲とはいえないし、戦闘が間近に迫っていない中でも起こっている。
 糸満市域において、日本軍により多数の住民が死に追い込まれた事例としては、「避難場所からの追い出し」や「米軍への投降の阻止」などがある。
 ガマなど避難場所からの住民の追い出しは、 証言も多く市域各地で起こっている。伊敷の場合、字内での激しい戦闘の記録はないのに戦没率がかなり高くなっているのは、日本軍によって避難場所から追い出されたことが大きな要因であると考えられる。
 伊敷では、当初はほとんどの住民がトーグワ―やクラガーなどの大きなガマに避難していた。 しかし戦況の悪化とともに、ガマに負傷兵が運ばれて来るようになり、やがて日本兵が銃を向けて住民を追い出した。追い出された住民は散り散りになり、字内の小さなガマや墓などに隠れていたようである。しかし、そのような場所は安全とはいえず多くの人々が犠牲になった。
 潮平は、住民のほとんどが大きなガマ(潮平壕)に避難していたために、糸満市域の中では戦没率がかなり低い。そこも一度は日本軍によって占拠され、住民のほとんどは追い出されたのだが、その後日本軍が撤退したために、住民はガマに戻ることができた。もし、住民がそのまま戦場を逃げまどうことになっていたなら、伊敷と同じように戦没者はもっと多かったに違いない。
 避難場所から追い出す際に、住民を殺害するということも起こっている。真栄平は日本軍最後の拠点の一つとなり、住民数百人が避難していたアバタガマは日本軍に奪われた。さらに、小さな屋敷壕からも住民を追い出しており、その過程で住民虐殺が発生している。
 避難場所からの住民の追い出しとは逆に、米軍への投降を日本兵が拒絶し、住民が外に出て行くことを許さず、結局は米軍の攻撃を受けて死の道連れにされる例も多かった。
 米須は米軍の攻撃が激しかったために戦没率も高いのであるが、その戦没状況を詳しくみると、単に戦闘だけが原因であるとはいいきれない。日本兵が銃剣や手榴弾で威嚇して避難壕を占拠しており、追い出された住民は、米軍に包囲された戦場を逃げまどい砲火に倒れていった。また、2カ所の共同避難壕の場合は、日本兵が逃げ込んできたため、軍民雑居の状態で米軍の攻撃を受けている。日本兵が投降を拒んだために住民も巻き添えになってほとんどが全滅した。住民の避難壕に日本兵が入り込んでなければ、また米軍の呼びかけに応じて投降していれば、これほどの人々が死ぬことはなかった。
 住民と日本兵が雑居する避難壕では、泣き声をあげる乳幼児を殺害するという異常な行為までも起こった。市域では真壁や山城などで発生している。
 国吉や真栄里、摩文仁などは、 戦闘が激しい地域だったのに戦没率が比較的低い。 国吉では、ガマを整備した共同の避難壕などに、真栄里では屋敷壕などに隠れていたようである。 また摩文仁では、海岸の断崖にある自然壕などに隠れていた。日本軍から追い出されるなどして地域外から逃げてきた避難民にとっては、激戦のあったこれらの字は悲惨きわまりない場所であった。だが、地元の住民の多くは、それぞれの避難場所で身を潜めて生きのびることができたのである。これらの事例は、避難壕からの追い出しなど日本軍の関与がなければ、激戦地であっても多くの人々が助かったことを示している。



3.本土および外地での戦災状況

 本土や外地などに在住していた糸満市域出身者からも戦争による犠牲者が出ている。糸満市民の戦争による犠牲者は、沖縄戦によるものが圧倒的に多い。しかし、本土や外地においての戦災状況も視野に入れなければ、糸満市と15年戦争との関係について理解することはできない。
 「糸満市戦災調査」によると全戦没者のうち本土や外地などの県外で戦没した者が2,070人もいる。これは全戦没者の約2割にあたり決して小さな数ではない。
 なぜ、これだけ多くの糸満市域出身者が故郷を遠く離れた地で死んでいったのかを考えていくことは、300万人余の日本人と数千万人の外国人が犠牲になった15年戦争について学ぶときに、重要な出発点となる。
 本土や外地に所在していた糸満市域出身者は、移民・出稼ぎなどのように自らの意思で渡っていった者と、兵士として召集され部隊とともに移動していた者とがある。また、九州や台湾への疎開の場合は、本人の希望によるものではあったが、国策による半強制的な側面もあった。
 所在地別の戦没者数と戦没率は以下の通りである。この表では、所在地を基準にしており、引揚げ後に死亡するなど所在地と戦没地が異なる場合も含んでいる。

  本土および外地居住者の戦災状況
身分  所在地  所在者数  戦没者数  戦没率
 軍
 人
 軍
 属

本 土    298     28   9.4%
外 地   1,828   1,005  55.0%
 (南 洋)     (236)  
 (フィリピン)     (401)  
 (中 国)      (87)  
 (満 州      (21)  
 (台 湾)      (15)   
 小 計   2,126   1,033  48.6%
 一
 般
 住
 民
 ・
 身
 分
 不
 明
本 土   4,067     84   2.1%
南 洋   2,599    647  24.9%
 (サイパン) (1,027)   (351)  34.2%
 (パラオ)   (500)    (65)  13.0%
フィリピン    721    288  39.9%
中国・満州    366     87  23.8%
 (満 州)   (311)    (86)  27.7%
台 湾    297     28   9.4%
その他    325     30   9.2%
不 明     23     1   4.3%
 小 計   8,398   1,165  13.9%
   合  計  10,524   2,198  20.9%

 軍人軍属と一般住民・身分不明を合わせた戦没率は20.9%で、沖縄戦の36.9%と比べると低いが、これは地域によって大きな差がある。一般住民・身分不明の地域別の戦没率をみると、やはり地上戦に巻き込まれたフィリピンや南洋群島が高く、米軍の上陸がなかった本土や台湾は低くなっている。また、同じ南洋群島であっても、激しい地上戦となったサイパンと米軍の上陸がなかったパラオとでは大きな差がある。(南洋群島に所在する者のうち島名不明が多数いる。また、島から島に移動していたために統計上二重に集計された者もおり、この戦没率などは確定値ではない。)
 満州では、ソ連軍侵攻から敗戦前後の混乱と引き揚げまでの長期滞在中に多数の人々が犠牲になっている。
 なお、外地からの引揚後に本土の収容所や病院などで死亡した者が60人いる。外地引揚者や海上での戦没者など本土・外地での戦災状況については、『戦時資料下巻』の「第1章 糸満市戦災調査からみえてくるもの」に解説があるので参照していただきたい。
 本土および外地で犠牲となった糸満市域出身者の約半数は軍人軍属である。一般住民の戦没率が1割程度なのに対して、軍人軍属の戦没率は約5割と非常に高い。異郷の地で多くの者が戦いのなかで死んでおり、一人一人の個人としてみれば、戦争による犠牲者であることは一般住民と変わりはない。しかし、「日本兵」として捉えると、日本の侵略戦争に沖縄県民も関与していたことを、否定することはできない。私たちにも加害者としての側面があることを考えていかなければならない。


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