南風原町の歴史と人物

1 古琉球期の南風原

 沖縄本島南部の中央部に位置し、ジャーガル土壌である南風原は、グスク時代以前においては農耕が困難な地とされていることから、従来遺跡の少ない地域とされていた。しかし、調査の進行によって多くの遺跡が確認されるようになった。そのほとんどはグスク時代に形成されたもので、現在の集落とほぼ一致している。
 これまでのところ最も古い遺跡で、13世紀にさかのぼるといわれる宮平遺跡からは、鉄製の鏃などとともに炭化米が発見されており、当時水稲作が行われていたと考えられている。
 兼城按司の居城とされる内嶺グスクからは、青磁器などのグスク時代の遺物が出土しており、「兼城くゑな」はここの家造りを歌ったものといわれている。また柴差の行事は、安平田子という男が兼城按司の娘を助けたという伝説に由来しているという(琉球国由来記)。
 三山時代の南風原についてはまだよくわかっていないが、遺跡より出土する土器を分析すると、南風原・大里・佐敷は同一の土器圏を形成し、三山の領域としては中山国に属する、との近年の考古学研究による説が注目されている。
 「はえばる」という名称の最も古い記録は、1522年に真玉道および真玉橋を築造した際の記念碑である「真玉湊碑」で、「はへはら」と記されており、事があればほかの島尻の諸間切の手勢とともに垣花の地に集結し防御にあたるべしと規定されている。

近世の南風原

 『中山世鑑』では、 三山時代の勢力範囲のうち、中山の版図に南風原・西原・真和志の三間切がなく、首里三平等として一括されている。近世初期の七代官制下で、この三間切は首里之平等代官の管轄であったが、1660年四代官制への移行により、南風原・真和志は島尻方代官の管轄とされた。
 間切は普通、二人の総地頭(按司地頭と総地頭)が領有していたが、南風原間切の場合は按司地頭は置かれず、王家である大美御殿の領有となっていた。大美御殿は、冠婚葬祭の礼式を行う首里城御内原に付属する別邸で、南風原・西原・真和志の三間切を領地としていた。南風原間切と大美御殿との関係については文献・伝承ともに乏しくよくわかっていないが、南風原間切から首里王府への文書の次書には総地頭の名と並んで大美御殿大親の名が記されている。なお、総地頭は、間切番所の置かれていた宮平村の名から宮平親方と称していた。
 『琉球国由来記』によれば、南風原間切の夫地頭に照屋・野原・中里(仲里)の三員の大屋子がいた。このうち地頭代は照屋大屋子で、野原・仲里は総耕作当としても古文書に名が見える。これらの夫地頭との関連はまだ明らかでないが、照屋・野原・仲里は現在の南風原町でごく一般的な姓であり、また屋号としても広く分布している。
 『琉球産業制度資料』に収録された南風原間切関係の古文書には、新垣・赤嶺・大城・城間・宮城・神里・金城など約20の名が出てくるが、そのほとんどが現在でも多くみられる姓であり、屋号としても確認できないものは、宮平村の江口という名だけである。

地域特性

 周囲を海に囲まれた沖縄にあって、海に接しないことが南風原の大きな地域特性であり、農業を基盤とした社会・文化となっていた。
 しかし、歴史的にみて、海とまったく無縁だったわけではない。『遺老説伝』などには、与那覇村の男(隠作根子)が「与那久浜」で髢を拾い龍宮に遊んだ話や、宮平村の善綱大屋子が西原間切我謝の浜で大亀を捕らえた話、崎山村の崎山里主が漁をしていて霊石を得た話などの伝説が記されており、かつては生活の場が海におよんでいたことがうかがえる。また、『おもろそうし』には、「与那覇浜」を謡ったオモロが四首ある。
 王都である首里に隣接することも地域特性の一つで、様々な文化的な影響を受けている。 例えば芸能では、御冠船踊という宮廷芸能の影響を受けた古格の女踊を初めとして、長者の大主・棒踊・獅子舞・男踊・狂言などが、村遊びの中で育てられ、今日まで受け継がれている。
 首里からは人の流入もあった。新川や大名の集落は、首里から移住した士族によって形成された屋取集落である。日本で初めて人力飛行に成功したといわれる「飛び安里」も士族で、首里から津嘉山村に移り住み、そこで飛行実験を行ったと伝えられている。

近代の南風原

 南風原における学校教育は、1868(明治元)年に仲村渠筑親雲上が宮平村に手習所を開設したのが始まりと伝えられている。1880年、地頭代の照屋道孝が中心となり、県に小学校の設立を申請して許可され、沖縄最初の小学校の一つとなる南風原小学校が創立された。やがて、1889年に大里尋常小学校に統合されて大南尋常小学校となったが、1898年には再び南風原尋常小学校として独立した。
 1902年に沖縄医生教習所を卒業した神里の照屋清五郎は、島尻郡の各学校医を兼ねながら開業していたが、生活困窮者からは医薬代を徴収しなかったことで有名であった。その子照屋清雄も医師として地域医療に貢献している。
 1914(大正3)年、村立女子補習学校が南風原尋常小学校に併置された。当時の南風原の織物は粗織の木綿布が中心でそのために南風原製の織物を指す「チャン・ムトゥブー」との俗称は、安物の代名詞となってしまった。女子補習学校に染織の教師として招かれた熊本県出身の金森市六は、新しい染織技術を指導し、退職後は宮平や山川で織物工場を経営して、南風原の織物産業の発展に貢献した。その功績もあって、現在では琉球絣の最大の産地となっている。
 1914年に村長となった山川の神里多一郎は、大正天皇即位の記念事業として村内全員の断髪を決行し、頑固党を屈伏させている。その子で、小学校校長を歴任した神里多盛は、青年教育に尽力したことにより、1935(昭和10)年文部省より功労賞を受けている。
 大正から昭和にかけて県会議員・村長を長期にわたって務めた兼城の仲本亀五郎は、道路網の整備や河川改修に力を入れ、村政の発展に貢献した。

海外雄飛

 南風原から南米・ハワイ・フィリピンなどに多くの移民が出ている。1908(明治41)年の日本からの第1回ブラジル移民にも45人の南風原出身者が加わっていた。この中には、小学校訓導を辞めて参加し、移民団の沖縄移民総代となった城間真次郎(津嘉山)やのちに日系人初の歯科医師となった金城山戸(津嘉山)、天才賭博師「イッパチ」としてブラジルにその名をはせた儀保蒲太(津嘉山)がいた。
 ハワイに移民し歯科医として成功した金城善助(津嘉山)は、 1940(昭和15)年、紀元二千六百年記念皇軍傷病兵慰問日本視察観光団の団長として故郷に錦を飾っている。
 明治から大正にかけて、台湾・日本・中国をかけぬけた新垣弓太郎(宮城)は、東京で下宿屋を営んでいる頃、謝花昇ら自由民権運動家と親交があり、また宋教仁ら中国人留学生の世話をしていたといわれる。その後、中国本土に渡り、孫文の同志として辛亥革命を戦ったという。

戦災と復興

 沖縄戦中、南風原は沖縄守備軍司令部のある首里の後方陣地として、20余の日本軍部隊が村内各地に配備されていた。その一つに広池文吉を病院長とする沖縄陸軍病院があった。そこでひめゆり学徒隊をはじめ、多くの悲劇が起こっている。 また、戦争終結前後の混乱のなかで、県の防疫官吏であった大城森(兼城)は、宜野湾や金武の避難民集結所で衛生面に尽力した。
 沖縄戦によって南風原は、住民の40%以上が戦死するなど、壊滅的な被害を受けた。沖縄戦終結後、南風原村民は本島各地の収容所に収容されていたが、1945(昭和20)年12月、大里村大見武(現在与那原町)にあった米軍部隊跡への移動が許可され、そこで村再建の基礎づくりが始められた。この時、軍命により区長に与座章三郎(津嘉山)が任命されている。翌年7月南風原村全域の移動許可が下り、やっと村民はそれぞれの字に帰ることができた。
 戦後の復興期に金城金保(津嘉山)は、農事試験場長や南部農林高校の初代校長として研究体制の基礎を築き、農業の再建に努めた。
 社会が安定をとりもどし発展期を迎えて、 特異な才能を発揮する人物が出てきた。津嘉山の金城信吉は、那覇市民会館をはじめ、戦後沖縄を代表する建築物の設計を数多く手がけている。また、金城哲夫(津嘉山)は、テレビの人気シリーズ、ウルトラマンの中心的脚本家として東京で活躍した。
 1972(昭和47)年の復帰前後から南風原は、那覇市のベッドタウンとして都市化が急速に進んでいる。急激な人口流入によって、現在では他市町村出身者が過半数を占めるまでになっている。

               『沖縄県姓氏家系大辞典』 角川書店 1992年


<前のページ     トップページ     次のページ>