私は、大学では前近代史を専攻していました。 それが、縁あって現在では沖縄戦の調査にかかわるようになり、これまで多くの方々からその体験を聞いてきました。しかし、体験者からの聞き取りを、どう歴史として記録していくのか、その方法をつかめないままに現在に至っています。そのため、これまでの聞き取りのほとんどが、データとして利用されただけになっています。どうしても、歴史を専攻してきたので、文献第一主義に陥ってしまいがちで、聞き取り資料の扱いに戸惑いがあります。聞き取りで、どれだけ真実に近づけるのか不安があるのです。
@どう聞き取るのか。A聞き取ったものをどう分析するのか。B分析したものをどう記録として編集するのか。
手記でもルポルタージュでもなく、行政が記録(史料)として編集するものとして、まだ自分にぴったりくる方法を見つけきれていません。限られた時間(調査者と、何よりも体験者の)の中で、どうすればいいのか。浅くとも多数からか、それとも少数でも深く掘り下げるべきなのか。理想と現実の狭間で迷っています。そして、今やらなければいけないことは、完全な理論よりもまず行動であることも確かです。
こうした迷いを引きずったまま、今回の石垣島研修、いわば現代史をどう記録するかの研修に参加したのでした。そして、明石の公民館での体験者からの話に、いいようのないショックを受けました。そのショックは、いくつもの要因が絡み合ったものですが、その一つは、私も「民衆」だったということの再発見でした。ほとんど復帰後世代といってもいい私は、これまで自分が「民衆」であることをあまり意識することなく歴史と向き合ってきました。ところが明石で、政治や大自然に翻弄されながらもたくましく生きている姿を見て、それが沖縄戦の体験談を聞くのとは違って同時代に生きているだけに、自分もまた歴史の当事者である「民衆」なんだと突然気付かされたのです。それまで第三者的にメモをとっていた自分自身に、急に違和感を感じたのでした。
そして同時に、こうした「体験」を、どう歴史として記録していけばいいのか、あらためて考え込んでしまいました。「苦労話」の羅列でいいのか、「苦しいことも沢山あったけど、楽しいこともありました」というノスタルジーでいいのか。明石の方々の話に心が震えながらも、冷たく考え込んでしまっていました。
喜怒哀楽の生き生きとした個人からの聞き取り資料は、その人の生きざまを浮かび上がらせ、引きつけます。
もしも、個人の歴史が寄り集まって歴史の全体像を描くことができれば、事象の多面性と個人の顔が見える生きた歴史になると思います。しかし、個人の聞き取り資料をただ並べただけでは、それが何千何万あっても歴史の全体像をつくることはできないでしょう。たしかに個人の集まりが社会になりますが、活字になった個人史を集めただけでは、歴史にはならないと思います。
文献資料と聞き取り資料には、本来優劣はないはずです。聞き取り資料に不安があるとすれば、それは体験者の記憶の曖昧さや虚偽の問題というよりも、聞き手によって内容が大きく左右されるという不安定さではないでしょうか。記憶の曖昧さや虚偽の問題は、文献資料でもまったく同じです。八重山開拓移住についても、当時の琉球政府の文書のみから、移住地の実情を把握するのは困難ではないでしょうか。また、身近な例でいえば、文献資料に評価を下しているはずの私達自身の出版物の奥付が、資料価値に乏しいということがあります(自戒)。文献資料の記述をそのまま歴史的事実だと断定することはできませんし、それは聞き取り資料と同じことなのです。
それを歴史学の研究者たちは、史料批判をして歴史像を組み立ててきました。これを聞き取り資料についても、あてはめていかなければならないでしょう。語りを史料批判することなく無批判に受け入れることは、結果的にはその人の人生・存在を否定することになるのではないかと思います。 政治的・社会的大事件であろうと、民衆が体験した生活史であろうと同じ姿勢で向かい合わなければいけないのではないでしょうか。
そして、聞き取り資料を文献資料を裏付けるものとしてではなく、どちらも人間が生きてきた証として、うまく融合させることができれば、
特定少数の権力者による歴史像でなく、地域住民が主体となった歴史像を描けるのではないかと思います。
しっかりと冷徹に歴史事実を刻みながら、私たち一人一人が歴史の主人公として生きているさまを歴史叙述できないものか、考えていきたいと思います。
私もまた、主人公でありたいから・・・
『あしびなぁ』第7号 沖縄県地域史協議会 1996年
|